オロンスム城の築造年代The Date of Construction of the Walled City “ Olon Süme ”

白石典之

1.築造年代解明の意義

オロンスム城は、モンゴル帝国および元朝皇室の駙馬王家であった、オングト族の首長(王)の本拠であった。オングト族の首長は、代々皇帝の娘(公主)を嫁とする、いわゆる「駙馬」として、帝国の権力中枢に少なからず影響を与えていたことが知られている。オングト族についての正しい理解は、モンゴル帝国史を解明する上で重要な課題であることは、当該期の研究者の間で一致するところであろう。その際、オロンスム城の調査・研究が重要な役割を担うことも異論ないだろう。その通り、オロンスム城はそれを解き明かすための手がかりを、これまで提供し続けている。そのなかで、この城がオングト族の王城であったことを確認し、さらに、ネストリウス派キリスト教およびカトリックに関する問題を通して、この時代の東西交渉史を考古学的に実証した江上波夫の業績は特筆すべきである。だが、かなりの部分が未解明のままである。

筆者は、オロンスム城研究の残された多くの課題の中で、とくに重要なのは、その築造年代の解明だと考える。長辺が1kmほどにもなる巨大な城郭の造営には、それなりの政治・経済・文化のバックグラウンドが必要である。いつ、いかなる理由でこの城が築かれたのか、そこにオングト族興隆の謎を解く鍵があると考えている。この城は、城内から発見された『王傅徳風堂碑』(1347年立石)の碑文によると、至大元(1308)年には存在し、機能していたことがうかがえる。だが、残念ながら、それより遡って築造年代を示す確実な文字資料は知られていない。

築造年代を考察したいくつかの議論を紹介しよう。江上波夫は、アイ・ブガ(愛不花)がオングトの族長だった時に、オロンスム城が築かれたと述べている。それは城の傍らを流れるアイバギン・ゴル(Aybugh-in gol)あるいはアイブガイン・ゴル(Aybugha-in gol)、つまり「アイ・ブガの河」という呼び名が、城の建造者にちなんで命名されたのではないかという推定による(江上1986 : 34)。アイ・ブガは、アリク・ブケの乱(1260~64年)やシリギの乱(1276~ 81年)の鎮圧に参加したので、1250年代から70年代に活躍した人物とわかる。すると築城年代もその頃ということになる。興味深い見解であるが、あくまでも想像の域を脱しない。

また、李逸友は、文献史料に、本来オングト族の族長は「アンダ城(按打堡子)」というところに居していたが、至元年間に「新城」を築き、以後そこを本拠地にしたとあることに注目し、オロンスム城がこの「新城」にあたると考えている(李1993 : 165)。しかしながら、この「至元年間(1264~1294年)」とするについて、李は具体的な論拠をあげていない。

鄧宏偉・張文芳は、「按答堡子(按打堡子)」は金代に築かれたもので、「新城」は「按答堡子」を拡張したものだと理解している。オロンスム城から金代の遺物が出土していることが、その論拠のひとつになっている(鄧・張1992 : 133/137)。同様の見解は、蓋山林によっても提示されている(蓋1991 : 102-103)。「按答堡子」が文献史料に年代を明示して登場するのは、『元典章』の壬子(1252)年であり、「新城」の初出は『元史』世祖紀の至元20(1283)年である。鄧らの意見に従うと、拡張工事がなされ、オロンスム城が成立したのは、1252年から1283年の間ということになる。

このように、今日までオロンスム城の築造年代には諸説あり明らかになっていない。本稿ではこの問題について視点を変えて、若干の検討を試みたい。

2.尺度による年代決定

これまで筆者は、モンゴル高原における多くの「土城」と呼ばれる城郭遺跡の測量調査を行ってきた。その結果、それらがある程度厳密な規準により計画・設計され、構築されていたことがわかってきた(白石2001・2002)。多くの場合、中国の度量衡の影響を受けていたことも明らかになった。つまり「里・歩・尺・寸」などを単位とする長さの規準によっていた。それはモンゴル帝国期についても言えた。しかも、時期により、1尺の長さ、および何尺をもって1里とするかが、微妙に変化していたこともわかった。これは土城築造に利用された長さの規準を明らかにすることにより、その土城の築造年代を、おおまかではあるが、導き出せるということを示している。文字資料や共伴遺物の少ないモンゴル高原の土城遺跡の、造営年代の決定にきわめて有効である。

モンゴル帝国期の尺度の変化を具体的に述べる。13世紀初頭のチンギス・ハンの時期には、彼の宮廷であったアウラガ遺跡の例から、29.6cmを1尺とする尺制が用いられていたことがわかる。これは唐の尺度(唐尺)の流をくむ。つぎのオゴダイの治世になると、1235年に築かれたカラコルム遺跡などから、31.6cm を1尺とし、その1800尺をもって1里としていたことがわかった。1里を1800尺とするのは、中国歴代王朝のなかでは一般的なことであり、この場合は金(宋)朝の尺度(宋尺)の影響を受けたものだと想定できる。

その後1256年から3ヵ年かけて造営された元上都の内・外城では、1尺は31.6cm ではなく、34.5cm 前後とする長めの尺制が用いられていたことが、近年公開された上都の空中写真(中国歴史博物館ほか2002 : 153)を検討した結果、新たにわかった。この尺は元朝の官印営造尺として使われたことが知られている(楊1997 : 86-90)。さらに、1200尺を1単位とする里制が使用されていたことも、同じく空中写真より判明した。1200尺を1里とすることは、元代に一般的になるが、この新知見は、そのような里制の源流が、上都造営にまで遡ることを示す。

34.5cm を1尺とする尺制は、その後の土城営造には定着せず、1270年築城の応昌府にみられるような、1尺= 31.6cm 、1里=1200尺が一般的になった。この尺度により、元上都外苑(1275年までには完成と想定)、外モンゴルのホクシン・テール城(1278年築造)、内モンゴル・エチナの黒水城(1286年ごろ築造)などが築かれた。ちなみに元大都(1267年着工)もこの尺度によった。

その後、 ゴビ以北のモンゴル高原では、1340年代中頃からモンゴル帝国滅亡まで、ハルホル・ハン遺跡やバルス・ホト1遺跡などいくつかの土城で、35.0cm を1尺、1200尺を1里とする例がみられるように変わった。この尺度がどのような系譜をもつのか、ゴビ以北だけの地域差なのか、今のところ不明である。

以上のことがらを整理すると、つぎのようになる(表1)。

表1 モンゴル帝国期における尺度とその使用時期
分期 年代(西暦) 1尺の長さ( cm1 里の長さ(尺)

第1期

1220年代

29.6

1800

第2期

1250年代中頃

31.6

1800

第3期

1260年代

34.5

1200

第4期

1340年代

31.6

1200

第5期

1370年頃?

35.0

1200

 

3.築城計画

オロン・スム城は小型の城郭を大型の城郭が取り囲む2重構造になっている。外側の城壁を「外城」、内側の城壁を「内城」と呼ぶ。内城は2つの郭が東西に連結していて、江上波夫それぞれを「西区」と「東区」と呼んでいる(江上1981 : 18)。平面全体の形状は長方形で、長軸方向は磁北に対し40度東である。門は3ヶ所認められている。外城北西壁と南西壁に甕城構造をもった門が、南東壁には切れ目だけの出入り口がある。

それではこの城郭で、尺度によって築造年代を導き出してみよう。測量データは東京大学東洋文化研究所保管の江上波夫ら製作の平面図による。これはすでに刊行されている平面図(江上1981 : 17ほか)の原版と見られ、細部まで描かれている。江上らの調査には建築学の専門家が参加していて、当時の写真をみると、平板測量をおこなっていたことがうかがえる。そのときの原図を基礎に作製されたのがこの原版であろう。検討に耐えられる精度を持つと考えたい。

表2 オロン・スム城各部位の計測値と使用尺度
記号 部位 計測値 (m) 算出値 ( ) 想定使用尺

外城北西壁

970

3070

3000

外城南東壁

951.5

3011

3000

外城北東壁

565

1788

1800

外城南西壁

582

1842

1800

E

 

316

1000

1000

 

332

1051

1050

 

332

1051

1050

 

31

98

100

A-1

 

368

1165

1200

A-2

 

602

1905

1900

B-1

 

442

1399

1400

B-2

 

509.5

1612

1600

D-1

 

195

617

600

D-2

 

387

1225

1200

内城東区

191

604

600

内城東区

190.4

603

600

内城東区

222

703

700

 

216

684

700

内城西区

92.5

293

300

内城西区

96

304

300

内城西区

215

680

700

内城東区

72

228

250

内城東区

65

206

200

b-1

 

118

373

350

b-2

 

72.4

229

250

d-1

 

24

76

80

d-2

 

128

405

400

d-3

 

64

203

200

g-1

 

22

70

70

g-2

 

193

611

600

*記号は図1と対応

*算出値=計測値÷ 31.6cm

*想定使用尺は算出値に近い10あるいは100の倍数

そのデータをもとに使用尺度を算出したものが表2である。その計測部分の英数字は図1と対応している。紙面の都合で、想定使用尺の算出過程は割愛し、結論だけ述べよう。

まず、29.6cm、34.5cm、35.0cmといった尺度の使用は認められず、31.6cmを1尺としていたことがわかった。つぎに1200尺をひとつの規準、つまり1里としていたことがわかった。全体的に600尺あるいは300尺といった個所が見受けられる。これはそれぞれ1200尺の2分の1、4分の1にあたる。これに対して、1800尺の3分の1、6分の1 という見方もあろうが、その他のモンゴル高原に残る土城の検討結果から、1里の半分、またその半分の長さという使い方は良く見受けられるが、3分の1とか、6分の1という使い方は稀である。やはり1200尺を規準にしていたと見るべきであろう。これによると、外城は長辺(A・B)が3000尺で2.5里、短辺(C・D)は1800尺で1.5里であった。

ただし、短辺は1800尺=1里とした場合、ちょうど1里となる。同じように、外壁北東壁の一部(A-2、1800尺)、内城北西壁(a+e、900尺)に、1800尺を規準とする部分も存在していることには注意を要する。後述するが、これらが年代決定の指標となった。

それでは、これらの城壁および区域は、同時に造られたのか、あるいは時間差をもって段階的に造られたのであろうか。

それをみる前に、内城に目を向けてみたい。内城の西区と東区では築造に時間差があったことを、江上は調査所見を踏まえて想定している。両区の間の壁が直線的に連続しておらず、東区に西区を継ぎ足したように、若干曲がっていることに注目した想定である。つまり東区が古く、西区が新しいというのである。ただ、その時間差は大きくないとも指摘している(江上1981 : 18-19)。筆者も両区の築造時間は大差ないと考える。それは、外城壁との配置バランスから判断して、内城の全体は最初から一体のものとして計画されていたとわかるからである。外城北東壁(C)から内城北東壁(c)までの距離(G)と、外城南西壁(D)から内城南西壁(d)までの距離(F)が、それぞれ等しく 1050尺になるようになっている。

つぎに内城と外城との関係をみる。最初にあった内城を取り囲むように外城を築いたとする見方もあろうが、内城の方には整った門や、壁が低く角楼などの防禦施設がないことなどから、それ自体単独で存在していたとは考えにくい。一方で、外城を先に造り、あとから内城を築いたという可能性はある。しかしながら、外城壁で旧1里の1800 尺がA-2、Dに、新1里の1200尺がA-1、D-2にみられるというように、両者が混在している。同じように内城壁でもa、gが新1里の半分の600尺、a+eが旧1里の半分の900尺というように混在している。後述するが、このような混在は、ある一時的な特徴であったと想定できる。このことから外城と内城の築造年代には、たとえ時間差があったとしても、それほど開きはなかったと考えられる。

以上から筆者は、江上らが図化した段階で把握できた城壁は(もちろん明清並行期などの後世の改変は除いて)、ほぼ同時期に築造されたと理解したい。

図1 オロンスム城の概略図と計測部位(江上1981を改変、英数字は表2に対応)

4.想定年代

オロン・スム城の使用尺度復元で明らかになった特徴は、すでに述べた通り、新旧里制の混在である。このように、31.6cmを1尺とし、1200尺(1里)・600尺(半里)を規準としながらも、1800尺(1里)・ 900尺(半里)という旧制の尺度が併用された城郭の例は多くない。それはそのような期間が長くなかったことに起因するからであろう。ある程度年代のわかる好例として元上都外苑がある。それは1260年代から1275年頃の間に築かれたとみている。そこでは城壁に付設された門と門との間隔に、1200尺と1800尺とを単位とする2つの規準が見出せる。これまでに明らかになっている「尺度編年」の成果にあてはめて考えると、第4期初頭にあたる。

つぎに築城計画からみてみる。城郭の造営にあたり、第3期以降は、その主軸を子午線に合わせるように、壁や建物の配置を決める。東西の壁が子午線とほぼ一致している元上都、大都、応昌府などが好例である。一方で、第1~2期の配置は、宮殿などの主要建物あるいは城郭の主門が、南東方向になるようになっている。第1期のチンギス・ハンの宮殿址アウラガ遺跡が好例である。また、第2期の帝国の首都カラコルムでは、例外的に都市の軸は北東-南西だが、宮殿(万安宮)の主門方向は南東である。オロンスム城にみられるような、南東方向を正面とする配置をもつ城郭は、元上都など第3期の城郭よりも、古い様相を持つことがわかる。つまり第1~2期、あるいはそれ以前の可能性もある。

この尺度編年とプランとの間の想定年代の齟齬は、どのように理解すべきであろうか。つぎのように考えることで解決できよう。まず、その場所には金代並行期に機能していた城郭あるいは集落があった。鄧らが指摘したように、金代の遺物が出土していることが、このことを裏づける。それが「按答堡子(按打堡子)」であったかは別途議論が必要であるが、オングト族の要地であったことは確かであろう。そこに、1260~1275年頃、「新城」つまりオロン・スム城が築かれた。すでにあった構造物の配置を踏襲したために、南東向きのプランの城郭となったのであろう。さらに推論を重ねると、外城短辺が1800尺であることは、以前から存在していた城郭の一辺を、そのまま利用したからだとも考えられる。金代後半には31.6cmを1尺とし、1800尺を1里としていた。だが、これを確かめるには全体の発掘調査が必要である。

それでは建造者は誰だったのか。このころのオングト族の首長はアイ・ブガ(愛不花)であった。1250年代から70 年代にかけて、さまざまな史料に登場する有力者であった。彼はフビライの娘の月烈公主を妻としていた。1260年に皇帝となったフビライは、上都、大都とつぎつぎに都城を築いたことで知られるが、彼の婿としてアイ・ブガも相応しい城郭に住むことが求められたはずだ。このころは有力部族の本拠地に城郭が築かれた時期であった。好例は、オングト族と同じように皇室と婚姻関係にあった、コンギラト族の応昌府の築城である。1270年頃のことであった。そのような社会の動きの中で、オングト族も大規模な城郭を造ったと理解したい。

結論を述べよう。オロン・スム城は、金代からそこにあった小城郭(あるいは集落)を拡張して、1260年代から 1270年代中頃の間に築造された。建造者は、すでに江上波夫が指摘したように、アイ・ブガだった可能性が高い。もちろん、これらは全体的な発掘調査を行っていない現状では、上記の議論はあくまでも一案に過ぎない。今後の調査研究に期待し、本稿がその一助になれば幸いである。

(新潟大学)

参考文献
  • 江上波夫1981 「都城址編」『オロン・スム』Ⅰ(江上波夫・三宅俊成共著)、3-40 頁、開明書院、東京( [ 原載 ] : 1967 「元代オングト部の王府址オロン・スムの調査」『アジア文化史研究・論考篇』 山川出版社、東京/ [ 再録 ] : 2000 『モンゴル帝国とキリスト教』 サンパウロ、東京)
  • 蓋山林1992 『陰山汪古』 内蒙古人民出版社、呼和浩特
  • 李逸友1993 『内蒙古歴史名城』 内蒙古人民出版社、呼和浩特
  • 白石典之2001 『チンギス = カンの考古学』 同成社、東京
  • 白石典之2002 『モンゴル帝国史の考古学的研究』 同成社、東京
  • 鄧宏偉・張文芳1992 「阿倫斯木古城遺址」『内蒙古文物考古』 総6・7期、133-138 頁、呼和浩特
  • 楊平1997 「従元代官印看元代的尺度」『考古』 第8期、86-90 頁、北京
  • 中国歴史博物館ほか(中国歴史博物館遥感與航空撮影考古中心・内蒙古自治区文物考古研究所編著)2002 『内蒙古東南部航空撮影考古報告』 科学出版社、北京