オロンスム出地資料についてThe Artifacts from Olon Süme

畠山 禎

オロンスムは、現在の中国内蒙古自治区に所在する都城址である。13~14世紀、モンゴル帝国時代および元朝時代に、オングト族首長の居城として栄え、元朝の終末とともに一旦途絶えたものの、16世紀、アルタン・ハーン [1507~1582] のころには、仏教寺院などが建てられ、再び居住地として機能していたことが知られている。

1927年にスヴェン・ヘディンの調査隊に同行した黄文弼がこの遺跡について報告して以来(黄1930)、何度か表面的な調査が行われたが、全面的な発掘調査には至っていない。1935年、39年、41年の江上波夫を中心とする日本隊の調査で、発掘・採集された資料が、東京大学東洋文化研究所、横浜ユーラシア文化館等に保管されている。

本稿では、国内に所在の確認されているオロンスム出土資料について、これまでの研究・報告に沿いながら、その概略を述べる。

13~14世紀(モンゴル帝国-元朝時代)の資料

1 瓦、塼、装飾瓦器

(1)瓦

オロンスムからはおびただしい数量の瓦が出土した。江上らの調査によって日本にもたらされた資料はそのごく一部であるが、それでも、この時代の瓦の資料としてはもっともまとまったものといえる。

瓦は大きく丸瓦と平瓦に分けられる。そのうち軒先に配置されるものにはそれぞれ円形または横長の装飾部分(瓦当)が付き、軒丸瓦、軒平瓦と称される。

丸瓦平瓦とも、無釉のものと釉薬が施されたものがあり、釉には白、緑、黄褐色等が見られる。

白釉瓦は「ローマ教会堂」址とされる遺構付近から発見されており(江上1967、290頁)、当時の教会堂の様子を彷彿させる。

緑釉にはビリジアンに近い緑とやや青みを帯びた緑が見られる。前者は三彩陶の緑などと同様の中国の伝統的な色合いであるが、後者はむしろイスラム世界を思わせる。釉色の違いは焼成温度の違いによるところが大きいといわれる(東亜考古学会1941、46 頁)。元の上都でも二種類の緑釉が報告されており(東亜考古学会1941、45-46 頁)、意図的に異なる色合いの製品を製作したことが推測される。

黄褐色釉の瓦は、反りの浅い幅の狭いものが確認されている。熨斗瓦のような使われ方をされたものであろう。

丸瓦の瓦当(丸瓦当)には鬼面・人面文、龍文、植物文などがあり、無釉のものと施釉のものが見られる。鬼面、人面には、様々な造形が見られるが、龍は全てほぼ同形である。

軒平瓦には横長の瓦当を持つものと、滴水、垂尖瓦当などと呼ばれる逆三角形の瓦当を持つものがある。完形品はほとんどないものの、前者は後者に比較して幅が広く大型であることが窺われ、縄痕や刺突などによって幾何学的な文様が表わされている。ほとんどが素焼きであるが、緑釉の施されたものもある。滴水には、龍文、鳳凰文などが見られ、多くは緑釉や黄釉が施されている。

(2) 装飾瓦器

鬼瓦、鴟尾などの屋根飾りを含む装飾的な瓦器をここにまとめる。破損が激しく、全体像が分かるものはほとんど無いが、鱗状、鰭状の文様を持つ破片が多数発見されている。無釉のものと、緑釉や黄釉で施釉されたものがある。

鱗、鰭、翼状のもの、猛禽の爪と思われる表現は、コンドイ Кондуй 遺跡の出土品に酷似する(Киселев1965, с.325-369)。コンドイ遺跡は現ロシアのチタ州にある14世紀のモンゴル皇族の居宅址とされる(白石2001、196頁)。

片面に蛇腹状の装飾を持つ無釉の瓦器は鴟吻(屋根飾りの一種)の鼻先と思われる。ロシア連邦トゥバ共和国にある同時代のジョンテレク Дëн-терек 遺跡 (Киселев1965, рис.55, 56-1)や、中国北京市海淀区の白雲観から類似した鼻先をもつ鴟吻が出土している。後者は緑釉が施されている(1)。

図版70は鱗状の文様と鰭があり、龍を象った装飾瓦器の一部かと思われる。割れ口から、針金状の芯が見え、このような装飾品の製作方法が窺える。

(3)塼

塼とは壁や床材として使われる焼成煉瓦のことである。植物文や龍文の表わされた、壁面に用いられたと思われる装飾的なものと、床面に用いられたと思われる方形の無文のものがある。

図版79の塼は縦横が36.0×35.5cm 、厚さ6.0cmの大型のもので、床材と思われる。表面は無文で、裏面に手のひらの圧痕がある。破損のため中指、薬指、小指の3本しか確認できないが、中指の長さが8.2cmあり、成人の手痕と考えられる。製作者によって付けられた窯印のようなものであろう。このような手痕のある塼は、1235年からフビライの大都(現在の北京)建設までモンゴル帝国の首都であったカラコルムでも出土している(Киселев

1965,рис.94) 。

図版82の塼は灰色を呈し、植物文様が見られる。「ローマ教会堂」址に散乱していたという「ゴシック風の葉帯文様のある装飾煉瓦」(江上1967、290頁、図版72AB)と同種のものと思われる。ただし、「暗青色の塗料」(江上 1967、290頁)は確認できなかった。なお、江上によって発表された資料と同一のものは、いまのところ所在不明である。

オロンスム出土の瓦、塼、装飾瓦器については、すでに三宅俊成による集成があり、特に鬼面文を中心とする瓦当の文様については詳細な論考がある(江上文庫・三宅1981)。

2 陶磁器

(1)中国からの陶磁器

オロンスムの中国陶磁については、早くも1940、41年に小山富士夫によってその一部が紹介され(小山1940, 1941)、近年では長谷部楽爾の論考がある(長谷部1998,2003)。

華北の製品とされる白釉を施した無文の碗、鈞窯や磁州窯とされる陶器片、青花(染め付け)、絞胎陶(練上手)、青磁、白磁など、この時代の様々な中国の製品が見られる。また、孔雀釉(翡翠釉)の施されたイスラム系とされる陶片もあり、元代の幅広い交流が窺われる。

カラコルム出土の陶器類の組成とよく似ており、双魚文のある青磁の鉢、暗褐色の釉が施された四耳壺などはカラコルムからほぼ同形のものが出土している(Киселев1965,табл.XXVI-4,табл.XXIX-1,рис.130)。

(2)在地の陶器

中国北方ないしモンゴル高原で製作されたと思われる陶器片も多数存在する。前述の中国陶磁に比べ厚手で、無文のものが多い。

黒釉陶器と呼ばれる黒褐色の釉が内外面に施された陶器はその一例で、胎土は明橙褐色で粗く、厚さ7~ 9mm、轆轤目が明瞭である。接合の結果、高さ19.7cm、最大腹径21.3cmの甕が復原され、この種の破片の多くはこのような器形であったことが予想される。

図版100は、復原口径約60cmの大きな甕である。口唇部は厚く無釉で、胴部内外面は施釉されている。胎土は明褐色で粗く胴部の厚さは2cm前後、馬乳酒の容器などとして使用されていたとされる。破片はしばしば建築資材としても使われていたようである(2)。

このほか、黄褐色の釉薬が施された厚手の瓶なども、在地の陶器であろう。

3 塑像

図版84は「教会堂」址付近から採集されたという人物胴部である(江上1967、290頁)。破損が激しいが、右手を胸に当てた姿勢や、衣服の襞の表現が見て取れる。外城東北部で採集された人物頭部は、面長で吊り目の特徴的な顔立ちである。頭部側面に製作の際の型の合わせ目がある。このほか、仏像頭部が採集されたことが知られている(江上1967、296頁、図版73B)。

4 石製品

石臼の破片や環状の石製品、扉の支軸受けなどが発見されている。これらは、城内外の所々に残っていたことが報告され(江上1967、293頁)、また破片が立てて並べられていたともいわれる(3)。石材の少ない草原地域にあって、破損したものは建築資材などとして再利用されたことが予想される。また、城壁の門付近のものは旗竿を立てるためのものであろう(江上1967、282頁)。前述のジョンテレク遺跡からも同様の石製品が出土している(Киселев1965, рис.34-3, 35) 。

また、怪獣のような装飾を持つ台石、龍頭を表わした大理石製の装飾などが知られている。

5 金属器

(1)青銅製品

銭や装飾品の破片などが採集されている。銅銭は城内で15枚採集され、その多くが宋銭であることが報告されている(江上1967、296頁)。

(2)鉄製品

釘や容器の破片などがある。図版103は、鉄製の鍋(釜)の口縁部と思われる。うち1点は復原口径約47cmである。胴部に鍔状の突起が付き、縦方向に鋳型の合わせ目が見える。現代でもこのような大鍋は羊肉をゆでるなど日用されており、当時の生活の様子が窺われる資料である。

6 拓本

(1)王傅徳風堂碑拓本

王傅徳風堂碑(1347年立碑)は、黄文弼が最初に報告し、その後江上波夫がオロンスムをオングト族の本拠地であると比定する根拠となった碑である。破損しており、全文は明らかではないが、馬札罕(マジャルハン)、八都帖木兒(バトテムル)などオングト王の名や、キリスト教徒を示す也里可温(エルケウン)という文字などが見える。江上は五つの断片の拓本(裏表)を報告しており(江上1967、図版56~59)、うち表面4片分と裏面の拓本は横浜ユーラシア文化館に収蔵されているが、表面左下1片の所在は不明である。

(2)墓石拓本

オロンスム遺跡にはネストリウス派キリスト教のものとされる十字架とシリア文字による銘文の刻まれた墓石があり、江上らの第2次調査で計10個の墓石について、実測、採拓などを行ったことが報告されている(江上1967、 14頁)。拓本は8個については銘文のみ、2個については銘文と十字が採られており、佐伯好郎によって解読されている(佐伯1940)。

16~17世紀の資料

1 文書、「アルタン・ハーン碑文」拓本

オロンスムの仏塔址の下からは沢山の反故のような文書類が出てきたという(4)。現在オロンスム文書として知られる文書類である。16世紀から17世紀初めに書写された仏典が中心であり、一部を1940年に服部四郎が紹介し(服部1940)、その後ワルター・ハイシッヒが詳細な研究を行った(Heissig1966,1976)。

図版115は「アルタン・ハーン碑」と通称される碑文の拓本である。1594年頃、この地に仏教を広めたアルタン・ハーンの子孫ダイチン・ノヤンとその妻のタイガル・ハトンの仏教への貢献を賞賛して、デルゲル・パンディタがたてたものと考えられる(5)。もとはオロンスムにあったが、採択時には百霊廟に移されていた。第一次調査の際に拓本が採られ、竹内幾之助が紹介した(東亜考古学会1937、286~287頁)。オロンスム文書と同様この時代の貴重なモンゴル語文献である。

2 土製品

(1)泥搭

オロンスムの建築遺構から、仏塔を象った高さ3.5~7.0cm程度の土製品が多量に出土し、この遺構が仏教寺院であることを明らかにした。白泥で出来た高さ8cm余り、底径約10cmのやや大型のもの、仏塔形のほか高さ1.5~3.5cm程度の螺旋状の土製品も出土している。螺旋状のものの多くは青色に彩色されている。これらについては、三宅俊成の論考がある(三宅1987)。

(2)塼仏

型作りで、板状または半球状の粘土の片面に仏像を表わしており、彩色されたものもある。このような仏像は現代のモンゴルでも知られている。

上記泥塔とともにチベット語でツァツァ(tsha tsha)と呼ばれるものである(6)。

3 その他 

上記資料の他、寺院の扉の把手と思われる獣面のような装飾のある青銅製品、仏像や仏具の一部と思われる青銅製品、木製品、紙製品などがある。

(横浜ユーラシア文化館)

(1) 北京市の遼金城垣博物館にて著者実見(2001年10月)。

(2) 白石典之氏のご教示による。

(3) (4) 稲生典太郎氏のご教示による。

(5) (6) 中見立夫氏のご教示による。

引用文献
  • 江上波夫1967 『アジア文化史研究 論考篇』 東京大学東洋文化研究所
  • 江上波夫・三宅俊成1981 『オロン・スムⅠ 元代オングート部の都城址と瓦塼 』 開明書院
  • 黄文弼1930 「西北科学考査団之工作及其重要発現1 貝勒廟北之古城」『燕京学報』 第8期、北平
  • 小山富士夫1940 「ねりあげ手」『茶わん』 第10巻第9号、1940年9月
  • 小山富士夫1941 「影青襍記」『陶磁』 第12巻第3号、1941年1月 
  • 佐伯好郎1940 「再び百霊廟附近に於ける景教遺跡に就いて」『東方学報』 ( 東京 ) 第11冊の1、1940年2月 
  • 白石典之2001 『チンギス = ハンの考古学』 世界の考古学19、同成社
  • 東亜考古学会1941 『上都 蒙古ドロンノールに於ける元代都址の調査』 東方考古学叢刊乙種第2冊
  • 東亜考古学会蒙古調査班1937 『蒙古高原横断記』 朝日新聞社
  • 長谷部楽爾1998 「内蒙古に運ばれた中国陶磁-江上氏採集オロン・スム陶片を中心に-」『江上波夫コレクションにちなむ「ユーラシア文化講演会」報告書』 横浜市教育委員文化財課
  • 長谷部楽爾2003 「中国の陶磁器」『横浜ユーラシア文化館』 横浜ユーラシア文化館
  • 服部四郎1940 「オロンスム出土の蒙古語文書について」『東方学報』(東京) 第11冊の2、1940年7月
  • 三宅俊成1987 「東西文化交流の一接点、オロン・スムの泥塔について」田辺勝美・堀晄編『深井晋司博士追悼 シルクロード美術論集』 吉川弘文館
  • Heissig, W.,1966, Die mongolische Steininschrift und Manuskriptfragmente aus Olon süme in der Inneren Mongolei. Gen : Vandenhoeck & Ruprecht,
  • Heissig W.,1976, Die mongolischen Handschriften-Reste aus Olon süme Innere Mongolei (16.-17. Jhdt.), Asiatische Forschungen. Band 46, Wiesbaden : Otto Harrassowitz.
  • Киселев С . В ., Евтюхова Л . А ., Кызласов Л . Р ., Мерперт Н . Я ., Левашова В . П ., 1965. Древнемонгольские города . Москва.