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稲生典太郎 (1)

昭和13年(1938)の春先のこと、ごく親しくして頂いていた山内清男先生と神保町厳松堂の所を歩いていたら、電車道の向う側から「おおい、山内」と声をかける方がある。江上波夫先生でした。近くの喫茶店で、三人で雑談をしている間に、山内先生が「稲生も大学を出ることになった」と言われると、江上先生が私に「近く蒙古に行く予定だが一緒に行かないか。それまで、先年採集して来た蒙古の遺物の実測などしてくれないか」との話。私もその気になって、ちょうど満一年間、細石器や綏遠銅器 (2) の定測・製図をしながら待機。(その時の銅器の主なるものは、現在、上野の博物館 (3) に常時陳列してあります。)昭和14年(1939)はじめから、機材や食料の調達購入を始めました。幾度も江上先生と相談しながら、備品のリストを作ったり、買い物に行ったりしました。何しろテントから紅茶の角砂糖、シャベルから写真のフィルムまで、一品一品数量を計算するのですから大変でしたがいい経験になりました。

5月某日、横浜港から出帆、天津に上陸。北京・張家口・厚和 (4) を経由して、目指す百霊廟に到着したのが5月末。一行は江上・飯田須賀斯両先生と山崎隆君と小生の四名。百霊廟特務機関のトラックを借りて、いよいよオロンスムの遺蹟に到着したのが6月はじめ。それより二ヶ月の野営自炊生活。人夫に雇った漢人の百姓には、江上先生の北京語が通ぜず、お互いに身振り手振りで、測量のポール一本建てるのにも、なかなかラチがあかず、いろいろ苦心しました。

遺蹟の学術的な記述は、江上先生の御報告 (5) に詳述されている所ゆえ一切省略させて頂き、雑項的なことを二三申し述べます。蒙古砂漠は砂ばかりの砂漠と言うより、むしろ草原とでも言うべき所で、所々に湿地があったり、水流豊かな小川が流れたりしている広大無辺の原っぱとでも申す所です。年中風が吹いていて、水筒の栓を外すと、いつもヒューヒューともの悲しい音を発するのには、やり切れませんでした。草原には1m余りの緑黒色の蛇が姿を現して閉口しました。時々、放牧されている牛が急に喧嘩を始めたか、ピョンピョンと二三匹とびあがるのですが、これは小さな龍巻が起って、牛の群に移動し、その中心の箇所にいる牛が巻きあげられるのだと判りましたが、今度はその龍巻がわれわれの天幕を襲いはしないかと心配したものです。

発掘作業中は晴天続きで幸いでしたが、夏分のことゆえ、なかなか日が暮れず、夕食後、少しおしゃべりをしていると、すぐ11時位になってしまい、明日の仕事にさしさわりがありました。持参の星座標の円盤で星の昇るのを合わせますと、東京と2時間の時差があったことを覚えています。

時々、遺蹟の側を駱駝の列が通過しました。四匹か八匹の一連に駱駝引きが一人ついていました。何を積んでいるか判りませんが、密貿易に関係があるのかも知れません。トラックが走る以前は、一連千匹位の大規模のものが多くあったと言います。大きな石臼を一枚ずつ振り分けに背負った駱駝や太い材木を積んだ駱駝が通りかかったことがあります。蒙古の王族達の住居が皆立派な漢民族型であり、所々に堂々たるラマ教寺院が建てられていますが、それらの材料がこうして運ばれたかと納得しました。

遺物について二三の思い出を申し述べますが、王傳徳風堂碑の碑面が風化して、石理に従って筆記用具の石盤位の大きさに剥離して、文字ははっきり読めるままで碑文としては断片となって文章にならず、うず高く積っていたのは、痛々しくも異様でありましたが、その後の江上先生の御調査 (6) の時、分断された碑石を発掘されて、やや旧状に復されたのは幸いでありました。

ネストリウス派キリスト教徒の十字墓石も十数基見受けられましたが、すべて原位置ではなく、後に建てられたラマ廟の土台の土留め石に転用されておりますから、原位置が判れば更に面白いことが判るはずです。墓石は当時実見出来る分は全て実測、写真、拓本をとりましたが、石の表面の風化がひどくて肝心のシリア文字の銘文がうまく写せなかったのは残念でした。

城中の所々に赤土色の泥まんじゅうが見受けられるので、一つを試掘してみますと、中から粘土の小型仏塔が沢山出土し、それに混じって、西蔵文の経文の破片や僧衣とおぼしき麻布のボロ裂が出て来ました。二基だけ掘って、あとは後の精査のために残したのは、良心的な心くばりです。

あと一つだけ、おかしなことを申し添えますと、遺蹟の側を流れている川の底を、ザルでさらってみたら、何とドジョウが沢山とれて、粉ミソの味噌汁に入れたらすこぶる美味であったことを覚えています。二ヶ月近くのテント生活を終え、厚和に出て来ましたが、大雨つづきで足止めを食って、善隣協会の宿舎のお世話になり、張家口にもどり、蒙疆学院(戦後、東洋大学社会学研究所長となられた田辺寿利先生が副院長であった)のお世話になり、東京に帰りついたのは9月の半ばでした。今、思い出しても、見聞するもの皆はじめての事ばかりで、誠に有趣有意義な経験をさせて頂いたものと感謝致しております。

(平成15年4月 記)

(1) 1915年東京生まれ。1938年國學院大學国史学科卒業。1939年第2回オロンスム調査に参加。その後は北京大学医学院講師(日本語)、外務省官房文書課勤務等を経て、中央大学文学部史学科で日本近代史担当。 1986年定年退職。本稿はオロンス ム調査当時の思い出を略記したものである。なお、本文中の註は、編集者がつけてくれた。

(2) オルドス式青銅器、中国北方系青銅器ともいう。

(3) 東京国立博物館。

(4) 現内蒙古自治区フフホト市。

(5) 江上波夫 『アジア文化史研究 論考篇』 東京大学東洋文化研究所/山川出版社、1967年。

(6)1941年の第3回調査。稲生は不参加。

Olon Süme Memories (abstract)

INOO Tentaro

Shortly before I graduated from the Kokugakuin University ( 國學院大學 ) in 1938, I had an opportunity to participate in the investigation project in the steppes of Mongolia as Professor Egami’s assistant.

We started to make preparations at the beginning of 1939, acquiring food and equipment for the journey, and left Yokohama in May. Stopping by Tianjin ( 天津 ), Beijing ( 北京 ), Zhangjiakou ( 張家口 ), and Houhe ( 厚和 ), we finally reached Olon Sϋme in early June.

At the site of Olon Sϋme, we saw the stone stele Wang Fu Defengtang ( 王傅徳風堂 ) already broken into fragments and piled up in a heap. The tombstones with Nestorian cross marks had all been moved from their original positions, but we were able to take measurements of all of them and to make rubbings as well.

Participating for the first time in an excavation in the steppes, I found everything exotic and extremely valuable.