江上波夫と内モンゴルのオロン・スム遺跡調査

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中見立夫

はじめに

江上波夫(1906~2002年、本稿では人名敬称を略す)といえば、西アジア地域を中心に数々の学術的業績をあげた考古学者、あるいは「騎馬民族日本征服説」にみられる、斬新な構想を提起した古代史研究者として知られる。半世紀をゆうに越える、フィールドワーカーとしての輝かしい履歴は、モンゴル高原を舞台に開始された。とくに内モンゴルのオロン・スム遺跡調査は、若き考古学者、江上波夫の名を、戦時下の厳しい状況のなかではあったが、一躍、世界へ知らしめた。おそらく日本人研究者によってなされた、戦前期のアジア考古学研究において、そして中央ユーラシア史研究の領域でも、もっとも画期的な成果のひとつとして、学術史上にしるされるものであろう。さらにこのオロン・スム調査が、戦後の西アジア考古学研究へと江上を誘う端緒となった。ところが戦争という困難な状況のもとでおこなわれたゆえに、正式な報告書は刊行されることなく終わり、調査でえられた資料も散逸した。今回の展覧会は、専門家でさえ、いままで目にする機会がなかった、このオロン・スム遺跡関係資料の一部を、戦後はじめて公開する。小文では、この調査がおこなわれた時代背景と江上の研究関心、発掘の経緯、そして収集品の行方と、これまで発表された研究について跡づけ、江上によるオロン・スム遺跡調査の意義を検証してみたい。

オロン・スムへの途:江上波夫はどのようにして、オロン・スム遺跡に着目したか

江上波夫は、 1930年、東京帝国大学へ卒業論文「漢代匈奴の文化」を提出、すぐさま東亜考古学会の留学生として、中国へと鹿島立ちをした。ここで注目しなければならないのは、江上は文学部東洋史学科の卒業生(指導教官は池内宏)であったことである。当時の東大文学部では、考古学については専任教員(原田淑人)がいたものの専攻学生が存在せず、さらに日本における考古学界の状況をみれば、日本考古学は私学関係者ないしは在野研究者によって担われ、唯一、考古学講座が置かれていた京大、そして東大においても、考古学に関心をもつものの目は、多くの場合、「大陸」へ向けられていた。しかし「大陸」といっても、日本の植民地統治下にあった朝鮮半島、そして租借地であった遼東半島あたりまでで活動は限定されていた。

もちろん辛亥革命、つまり清朝体制崩壊までは、鳥居龍蔵あるいは大谷探検隊などのように、日本人による考古学的なフィールドワークもおこなわれていたが、中華民国が成立して、とくに20年代以降は、政治情勢の不安定や、中国におけるナショナリズムの高揚によって、外国人、分けても日本人研究者が中国国内で考古学調査をおこなうことはほとんど不可能となった。のみならず場所によっては、研究者ばかりではなく、旅行そのものが危険でもあった。一方20年代においては、大学などで東洋史学、そのなかでも考古学などへ関心を向け、専門家への途を歩もうとする人材は乏しかった。おそらくは、このような時代状況もあって大正末年に東亜考古学会が島村孝三郎の主唱により設立され、さらに北京大学考古学会と共同して東方考古学協会が組織され、日中両国考古学関係者の提携による考古学調査実施、あるいは若手研究者の育成などがめざされた。

江上は、この1930年4月からの1年間におよぶ留学時代、山東、遼東あるいは内モンゴルを旅行し、考古遺跡を調査している。そして「江上波夫君が昭和五年察哈爾蒙古の旅行を試みたその経験を基礎とし」(『蒙古高原横断記』 [ 朝日新聞社、1937年 ] における、島村孝三郎の序文)、翌32年5~7月に東亜考古学会蒙古調査班が組織された。江上はその責任者ではなかったものの、調査班の「主唱者」であった。一回目はシリーン・ゴル盟を中心に、そして第二回が35年8から11月のあいだ、ウラーンチャブ盟で調査は実施されたが、この二回目に、江上はオロン・スム遺跡へ足を踏み入れることとなる。30年の留学時代に江上が個人でおこない、そして2次にわたり参加した東亜考古学会蒙古調査班の「調査」とは、いわゆる遺跡のジェネラル・サーベーであり、遺跡の分布と概況を調べ、遺物を表面採集するものであり、発掘をともなうものではなかったし、また江上自身の個人的な関心は石器時代、青銅器時代にあったようだ。では、どのようにして、江上はオロン・スム遺跡の存在を知ったのであろうか。

内モンゴル百霊廟の東北に、「オロン・スム」と呼ばれる「元代古城址」があることを最初に紹介したのは、27年に同地へ至った黄文弼であり、『燕京学報』第八期(1930年)に概報を載せ、「王傳徳風堂碑」が残されていることを伝えたものの、オングト部の遺跡で、さらにネストリウスの刻石があることについては、十分に認識していなかった。ともあれ江上は黄論文から、オロン・スム遺跡があることを知ったようだ。このあと33年に米国の Owen Lattimore が同地を訪れ、翌年の The Geographical Journal LⅩⅩⅩⅣ No.6 に論文を発表していたが、江上がはじめてオロン・スムへ至った時点では、ラティモア論文を知らなかったという。

江上は35年10月2日、赤堀英三とともに「案内の支那人が帰り度いと言ふので」 1時間程度の滞在ではあったが、オロン・スム遺跡を訪れた。そして「そこが元時代のクリスト教たる景教の寺院址たること」、そして「今回の内蒙旅行中我々の遭遇した最も重要な遺蹟の一つ」であることを直感し、さらに「将来この地を徹底的に発掘調査する機会があつたなら、壁画・文書等を発見する可能性も十分にある」との確信をいだいた。しかも興味ふかいのは、このとき16ミリ映画フィルムで、遺跡を撮影していることであり、もしも将来このフィルムが再発見されれば、戦前の状況を伝える点で貴重な映像となろう。さらに、もともと遺跡にあったが、すでにこの時点で百霊廟の「自治政府の包の前」に移動されていた、アルタン・ハーンに係わるモンゴル語石碑の拓本を同月5日に採集しているが、これは現在、東京大学東洋文化研究所に所蔵されており、今回、展示される。[横浜ユーラシア文化館特別展「オロンスム-モンゴル帝国のキリスト教遺跡-」(2003)図録(以下図録と略称)図版115]

オロン・スム遺跡の調査

  江上は、一回目の東亜考古学会蒙古調査班出張から帰国してほどなく、外務省所管の学術法人、東方文化学院東京研究所の助手に就職、二度目の出張から戻ると同時に、研究員へ昇任したが、東方文化学院は38年4月に、東京・京都研究所が分離して、以後、東京研究所は東方文化学院、京都研究所は東方文化研究所と名称が変更された。これよりさき36年冬に、D. Martin が、オロン・スム遺跡へ至り、遺跡の見取図を作成するとともに、「王傳徳風堂碑」の写真を撮影した。「この写真は北京の輔仁大学総長陳垣に提供され」、研究論文が Monumenta Serica Vol.Ⅲ,Fasc.1(1938)に掲載され、さらに写真が「輔仁大学のファイフェル (Pfeifel, E.) を通して、東方文化学院の佐伯好郎と私 [ 江上 ] に贈られ、研究に資するようにとの好意が伝えられると同時に、当時日本軍の管下にあったオロン・スムの調査が日本の東洋学者の手によって続行されるように要請された」。このような経過があって、オロン・スム遺跡が「オングト部長の王府址であることが全く疑問の余地がないことになって、この遺跡の重要性は益々認識されるに至った」 (1) 。

 江上はオロン・スム遺跡調査を計画し、日本学術振興会、外務省文化事業部からの助成が決定したが、日中関係の緊迫化のため実施は遅れ、39年6月5日から7月28日まで、江上にとっては実質上、最初の調査がおこなわれた。行をともにした日本人研究者は、飯田須賀斯、稲生典太郎、山崎隆である。このときの調査実績について、江上は、

飯田・山崎両者はオロン・スムの土城址を測量し、建築址を観察し、私 [ 江上 ] と稲生は、土城内外の撮影、遺物の実測・拓本・採集等をなし、また全員にて、二、三の建築址の試掘を行った。 [ 中略 ] 予定した概括調査の目的は概ね達成することができ、特にモンテ・コルヴィノの「ローマ教会堂」の遺址と想定される一建築址を土城東北隅付近に見出し、総計10個の十字墓石と王傳徳風堂碑の実測・撮影・拓本などによる調査を行うことができた。

としるしている。このとき採集された王傳徳風堂碑拓本は、戦後、藤枝晃の協力により釈文が発表されているが、今回、展示される。なお、江上は40年3月23日、東方文化学院創立10周年を記念する「公開」において、「綏遠省百霊廟附近汪古部遺蹟調査報告」をおこない、あわせて「オロン・スム土城址発見遺物(江上研究員出品)」が展示された (2) 。

ついで、41年9月27日から10月11日にも調査はおこなわれたが、前回の日本人参加者はいずれも同行できず、結果的に江上以外は、この種の考古学調査には素人ばかりであった。それゆえに「前年度の試掘箇所の拡大あるいは新たな遺址の試掘・測量等」をおこなった程度であったが、内城東区の宮殿址については、「将来そこを全面的に発掘すれば、オングト王の宮殿址を全体が必ず暴露されることを確信するに至った。」さらに「ローマ教会堂」址に関しても、前回の「想定」から「ほとんど確定し得るに至った」のである。そして、「いよいよ次の調査において、この東西文化交渉史上稀有の重要遺跡を発掘しようと決心した」のであった。江上は帰国後の同年12月12日、東方文化学院第13回談話会において調査報告をおこなったが、「壁画を出土する遺蹟を発掘して、比較的大なる壁画断片を採集し、オロンスムに遺存する十個の景教十字墓石中、最も完好なるもの一基と、最小なれども他と様式用材を異にする特異なる一基の搬出に成功」と具体的な収集物について語っている (3) 。ちなみに日本にもたらされた、この墓石について、1991年の座談会で、江上は伊東忠太の要望にもとづくものであり、「中学の同級生が百霊廟の隊長になっていた。それで巡査を出してもらって二つ運んだ」 (4) と回顧しているが、わたくし [ 中見 ] は、東方文化学院で同室であった、景教研究家・佐伯好郎の強い希望によると伺っている。

だが、この報告をした数日前、12月8日、太平洋戦争がはじまり、また江上は新設される文部省管轄下の民族研究所設立準備委員会幹事として奔走、43年には民族研究所所員に発令された。さらに戦局が悪化し、「百霊廟方面も完全に危険地帯となって、1943年10月には再び百霊廟まで来ながら、オロン・スムに赴くことさえでき」ない状況となり、日本の敗戦を迎えた。このように江上が戦前にオロン・スム遺跡を訪れたのは、35年は1時間程度、 39年が2ヶ月弱、41年は約2週間であり、しかも調査は、本格的な発掘への予備段階で、挫折のやむなきに至ったのである。

結局、いったい、どの程度の遺物・資料をオロン・スム遺跡から将来したのか、調査そのものが中途で終わったことにより、さらに後述する事情で、戦後、遺物が行方不明となることもあって皆目分からない。しかし江上により、モンテ・コルヴィノの「ローマ教会堂」が発見されたとの、東西交渉史研究上の画期的事件は、戦時下とはいえ、ドイツ・カトリック系東洋学者の拠点であった輔仁大学関係者、あるいは当時「枢軸国」寄りの政治姿勢をとっていたヴァチカンの在華筋を介してヨーロッパへも伝わっていた。一方、江上以外にも、オロン・スム将来遺物へ注目した、ないしは関与した研究者がいた。ひとりは、陶磁器研究家の小山富士夫であり、前記40年の展示をみており、「江上氏一行が内蒙百霊廟の遺蹟で採集した陶片は、総数五千点余りに達するが、そのほとんどすべては南宋末から元にかけてのもの」としたうえで、「中国陶磁史上、最近における最も大きな発見」と評価している。さらに「近く江上さんの許しを得て詳細にこれを調べ、そのうち何かに私見を発表したい」と期待を述べているが、「練上手」についての考察文が残されている (5) 。

もうひとりの人物は、東方文化学院で研究嘱託をしていた言語学者、服部四郎である。オロン・スムは、モンゴル帝国時代のオングト部遺構として、江上が調査した時点でも、そして今日においても研究者のあいだでは知られている。ところが、そのあと16世紀には、多くの仏教僧院が建立されていた。「オロン・スム/Olon süme 」、つまり「多くの寺」という地名も、このことに由来する。そして江上は、モンゴル帝国時代の遺物とともに、この時期に属する、「数多くのチベット語のものと、少なからぬ蒙古語のものと、漢字を認めた少数の断片」を39年の調査において仏塔址から発見し、日本へ持ち帰って旧知の服部に解読を依頼した。服部の後年の回想によると、「文書は破き棄てられたような多くの小さい断片になっており、皺くちゃでまだかなり泥がついていた」状態で、「引き出し様の箱」 10近くに入れられ、東方文化学院にあった服部の部屋に置かれていたという。

だが、服部は「この仕事をあまり気の進まない状態で引き受けた」という。服部は、すでにモンゴル語研究者としての地位を確立していたが、研究関心の中心は「口語」にあり、「ウイグル式蒙古字による文献は13~14世紀のものは貴重だけれども、あまり年代の下がるものは口語史研究の資料として価値が低いと考えていた。オロンスム出土の文書は、16世紀末から17世紀の頃のものかと考えていたので、こんなものの解読に時間を取られるのは迷惑だと思った」と、後年その事情をつづっている。そこで、「比較的形の整っているもののうちからいろいろの種類のものを十数片選んで、見本として解読」し、論文 「オロンスム出土の蒙古語文書について」において紹介した (6) 。具体的には、服部は13件の文書をとりあげて、原件の写真とともに、ローマ字転写・日本語逐語訳をおこない、文書の年代と内容、モンゴル語表記にみえる「口語の要素」を考察した。横浜ユーラシア文化館には、服部が論文で対象とした13件のうち、10件(文書第1~4、6~11)が所蔵されており、今回、展示される。なお、文書第9[図録図版113] は“Qatun-u jarliγ bičig” つまり「妃のお言葉」(服部訳では「后の勅書」)ではじまり、文中に“Yüngsiyebü”の語もみえる文書断片で、オロン・スム将来文書のなかでも最も歴史的価値のたかいもののひとつであるが、「この発見の史学的意義については追って江上研究員より発表されるであろう」と付言されていた。

この文書類に注目していたのは、ドイツの若きモンゴル学者、Walther Heissigであった。かれは、41年、おそらくは江上による戦前最後のオロン・スム調査のまえに、東方文化学院を訪ねており、江上は「得意満面にゴチック式教会の装飾の残余と、大司教モンテコルビノの教会の塑像[図録図版84]を見せてくれた」 (7)としるしている。さらに、わたくしが生前に江上から伺ったところによれば、戦前、デンマークからの依頼で、文書についてはマイクロフィルムを作成し、ポジフィルムを送りネガフィルムは手元に残したはず、とのことである。当時のHenning Haslund- Christensenらによる、活発なモンゴル民族学調査をおもえば、ありえない話しではない。実際、戦後、ハイシッヒは文書のマイクロも利用している。ただし、現在、このマイクロの所在は確認できていない。そして服部は、江上がオロン・スムから将来した文書について、前掲のように「数多くのチベット語のものと、少なからぬ蒙古語のものと、漢字を認めた少数の断片」と書いている。しかし「数多くのチベット語」と「漢字を認めた少数の断片」の文書に関しては、だれも記録を残していないし、所在も不明である。

戦後におけるオロン・スム将来資料の行方と江上による研究

江上は、中国東北地方で、日本の敗戦を迎えた。当時の官職は、文部省民族研究所研究員であった。かれが日本に帰還したのは46年11月であるが、この江上の不在中に、東方文化学院に保管されていた、オロン・スム将来資料の一部は、アメリカ占領軍によって「接収」されたという。占領下における「文化財接収」の実態は不明であるが、「接収」の対象となったのは、日本軍が中国ないしは東南アジアの機関・個人から「掠奪」したものもあれば、東亜考古学会による学術調査資料などもふくまれていた。一番著名な「接収文物」は、汪兆銘から昭和天皇へ贈呈された、玉を嵌め込んだ屏風であり、現在は台北の国立故宮博物院に所蔵されている。「接収」といっても、学術調査資料の場合、すべてを押収した訳ではなく、おなじものが複数以上あるときは、1点は研究参考資料として、被「接収」機関のもとへ残され、あまりに片々とした遺物も除外された、と関係者から聞いている。

一方、東方文化学院が所蔵する文献・資料の一部は、戦災を避けて疎開されていた。ただ東方文化学院自体は、いわゆる「ウォーナー・リスト」にあげられていたため、空襲で罹災することはなかった。しかも江上は、43年に東方文化学院を離れており、さらにオロン・スム調査についても、日本学術振興会は、東方文化学院の事業に対してというよりは、その研究員であった江上個人への助成であったようで、さきに言及した40年の展示会でも、遺物は「江上研究員出品」として公開されている。したがって、オロン・スム将来資料が、どこで、どれだけ「接収」されたか、まったく分からない。おそらく、「比較的大なる壁画断片」や「景教十字墓石」2基、あるいは「総数五千点余り」の陶片の一部などが、「接収」されたかと推定される。生前の江上からわたくしが伺った話しによれば、帰国後まもないころ、接収された資料が、横浜の進駐軍倉庫にあることを知り、許可をえて写真を撮影しに行ったとの由であるが、その際に撮られた写真と確定できるものは、いまのところない。ともあれ、手元(東方文化学院)に残された、わずかな発掘資料と図面、写真などを除いて、モンゴル語文書もふくめ、オロン・スム将来資料のほとんどが、占領軍によって持ち去られたと、江上はおもっていた。しかも接収された遺物が、どこへ返還されたのか、行方はいまもって分からない。

さらに話しを複雑にするのは、外務省所轄の東方文化学院は48年に解消するが、その大塚にあった建物(外務省研修所をへて、現在は拓殖大学所有)へ、すでに41年、東京大学附置研究所として設立されていた、東洋文化研究所が移ってきたことである。東洋文化研究所は、東方文化学院の文献・資料などの寄託をうけ(67年に外務省から移管)、所員5名は東洋文化研究所に引き取られた。だが仁井田陞(法制史)、植田捷雄(外交史)にみられるように、研究員の移動は以前からあり、そのような人的関係もあって、江上は48年3月、東大東洋文化研究所教授となる。それゆえに、ハイシッヒのごとく、江上のオロン・スム調査が、あたかも東大東洋文化研究所によっておこなわれたかのごとくおもいこむ、誤解が生じたのであった。

戦後の混乱のなかで、日本人の多くは一種の精神的虚脱状態にあったといわれるが、江上がへこたれることはなかった。かえって外国へでかける途を塞がれたなかで、旺盛に学術活動をおこなっている。『ユウラシア古代北方文化-匈奴文化論考-』(全国書房、1948年)を出版し、また有名な「騎馬民族日本征服説」も、この時期に提起されている。そしてオロン・スム遺跡に関する論考も、「東亜に於ける最初の大司教モンテ・コルヴィノの伝道とその動機」『東洋文化研究』 6(1947年10月)、「オングト部における景教の系統とその墓石」『東洋文化研究所紀要』 2 (1951年9月)などを発表している。

このようなとき、49年ころに「ミュゼ・ギメのグルッセ R. Grousset が戦後最初の文化使節としてフランスから日本へ来て、そして私 [江上 ] がモンテ・コルヴィノの教会を探したということでわざわざ研究室へ見えたのです。その資料を見せたら驚いて。ぜひ私のところのミュゼ・ギメで講演してくれ」 (8)という次第となった。戦後最初の国際東洋学者会議が51年、つまり、いまだ日本が占領下にあった時期に、イスタンブールでおこなわれ、ここでモンテ・コルヴィノ教会堂発見の報告をしたあと、江上はパリのギメ博物館、英国、そしてヴァティカンなどで同様の講演をおこなった。そのときの原稿が、“Olon-Sume et la découverte de l’église catholique romaine de Jean de Montecorvino” Journal Asiatique CCXL-2(1952)であり、帰国後、原稿日本語版が『遊牧民族の研究(ユーラシア学会研究報告)』(1955年)に掲載されている。江上は、このように、ほぼ戦後、50年代前半までに幾編かのオロン・スム関係論文を執筆し、のちに東洋文化研究所退官時に刊行された『アジア文化史研究論考篇』(山川出版社、1968年)へ収録されている。江上のオロン・スムに関する論考は、いずれも東洋史で培った知識と、実際に発掘現場からえた考古学的知見を見事に融合させたもので、東洋史学出身者としての江上のキャリアをしめすものである。そして、江上の生涯にわたる多くの業績のなかでも、そのほとんどは考古学・古代史に関するものであることをおもえば、異色の業績である。

ちなみに、このギメ博物館の講演に際して、江上は「ゴッシク模様のある瓦」を記念として寄贈した。それは、前記接収のとき、「たった一つだけ僕の机の中に破片みたいのが」残されていたからである。もっとも現在の同博物館では当該瓦片は行方不明のようだが、前掲江上仏文論文の図版1がそれと推測される。だが、わたくしが御本人から伺った話しは異なり、机のなかに残された瓦片は2個であり、1個は「どこかにある」と述べられたが、今回の展覧会では、2点が展示される[図録図版82]。ともあれ、この外国渡航の最後に、江上は西アジアへ寄り、それが西アジア調査の端緒となった。つまり、戦前の モンテ・コルヴィノ教会堂発見が、戦後の外国へ行くこと自体がきわめて困難な時期に、江上を海外へ送りだす契機となり、さらに西アジアへと誘ったといえよう。

W・ハイシッヒらによるオロン・スム資料の研究

江上は50年代前半まで、オロン・スム遺跡に係わる論文と発表をおこなったあと、とくにこの問題に関する業績を発表することは、結局なかった。それは内モンゴルを訪れることが不可能になったこと、また収集品の多くが行方不明となったこともあるが、あらたな活動の舞台を西アジアにみいだしたことが、おおきな理由とおもわれる。このことにこそ、徹底してフィールドワーカーであった、江上の特徴がうかがえる。56年から、江上を団長とする、東京大学イラク・イラン遺跡調査が開始されていたが、その組織・運営に文字通り全精力を注ぎ、とても過去のオロン・スムを振り返る時間も関心もなかったといえよう。

そのようななかで、54年に、もともとソ連のモンゴル学者でドイツをへて、戦後は米国へ亡命した、Nicholas Poppeが、服部論文の文書第8に注目し、それが「入菩提行論」の一断片であること、つまりV・ウラディミルツォフが叢書Bibliotheca Buddhica XXVIII(1929年)で出版したモンゴル語訳「入菩提行論」第九章の一節に当たることを論証し、“A Fragement of the Bodhicaryāvatāra from Olon süme” Harvard Journal of Asiatic Studies Vol.17(1954)を発表した。さらに、 かつて41年、東方文化学院でオロン・スム出土資料をみたことがあり、江上とも面識のある、ハイシッヒが、オロン・スムにあったモンゴル語碑文をとりあげ、“Die mongolische Steininschrift von Olon süme” Central Asiatic Journal Vol.1(1957)を執筆した。ハイシッヒは ボン大学教授として、ヨーロッパにおけるモンゴル学の中心的学者となっていたが、62年、日本に所在するモンゴル語古典籍・文書調査のため来日し、前掲ポッペ論文のこともあって、オロン・スム文書の行方を追った。この62年の時点では、江上は39年に日本へ将来し、服部が一部紹介したモンゴル語文書に関して、占領軍に接収されたと理解していたようだ。江上は「オロン・スム出土品の悲しい運命」を語ったが、わずかに残されていた、「粘土とよごれにまみれた紙きれのほご」から、「モンゴル語写本の断片十七点」をとりだすことにハイシッヒは成功する。ちなみにハイシッヒはこの分について、44年に江上が「記念として持って来た」と書いているが、これは41年の誤りである。

ハイシッヒによる、62年の調査成果は、『内モンゴルのオロン・スム将来モンゴル語石碑および写本断片』 Die mongolische Steinschrift und Manuskriptfragmente aus Olon süme in der Inneren Mongolei (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1966) として出版されている。この報告のなかで、ハイシッヒは、 (1)前記オロン・スムにあったモンゴル語石碑拓本、 (2)服部論文所載の13件の文書(これをⅠとするが、この時点ではハイシッヒは現物をみていない)、 (3)62年にハイシッヒが江上のもとでみつけた17件の文書(これをⅡとする)、 (4)チベット語文書等を撮影したマイクロ(現物は所在不明)に収録されていた8件(これをⅢとする)を検討している。 (1)の碑文に関しては、前述のように、ハイシッヒはすでに57年に論文を発表していたが、この62年に拓本1本を江上からもらいうけ、その後、マーブルグ国立図書館で保管されていたが、現在はベルリンの国立図書館へ移管されたとおもわれる。江上のもとにあった、もう1本は東大東洋文化研究所が所蔵し、今回、展覧される[図録図版115]。

服部は論文において、文書テクストのローマ字転写と日本語訳をつけたものの、それが仏典であれば、いかなる経典の一部かまでは比定できなかった、というよりは服部はそのような作業に関心がなかった。とくに文書3、4、 5、に関しては、転写・訳ともにおこなわず、「同一筆跡」の例として写真をあげたにすぎない。ところが、まず文書8へ注目したのがポッペであり、それが 「入菩提行論」の一部であることを看破し、 さらにハイシッヒは日本において、江上に手元にあった未整理資料からも、さらに関連断片をみいだした。つまり服部論文掲載文書のなかの4件(3、4、5、8)に加え、Ⅱのカテゴリーから2件(1、16)、Ⅲから1件(35)が「入菩提行論」の断片であることが判明し、さらに多くの断片について identification がおこなわれた。ハイシッヒは、このときの感激を以下のように書いている、

ボディチャリヤーワターラ [入菩提行論] 翻訳写本の一葉は江上がはじめ1938年 [39年の誤り] にオロン・スムで発見した断片の中にすでに存在した。ところが今度はこの著作のより先の部分が在ったのである。一つ一つの紙片は今日まで対応を求めることのできなかった1938年の発見になる断片に一致した。私がお互につき合せたり、一致させたりの骨の折れる仕事を終えたとき、この著作の第一、八、九章からの個所を見つけ出した (9)。

ところが62年のハイシッヒによる調査ののち、モンゴル語文書については、実は接収されておらず、江上のもと(あるいは当時、大塚にあった東洋文化研究所、つまりかつての東方文化学院の建物)に200点以上の文書が、存在することが判明した。このことは、上掲66年出版のハイシッヒ著書でも言及されている。それゆえハイシッヒは66 年、再調査のため来日した。結果的に、早ければ15世紀末から17世紀初頭の時期に年代が比定できる文書211 点、具体的には服部論文ですでに紹介されている13件(OS I/1-13)、62年に江上のもとでハイシッヒがみいだした17件24点(OSII/1-17、ただしOSII/3,4,11は各2点、OSII/7,13 は各3点からなるので24点となる)、そしてあらたに出現した174件(OSIV/1-174)を現物確認した。

このあと、ハイシッヒは約10年の時間をかけて、文書断片の接合、内容の確定、さらに紙質の鑑定もおこない、『内モンゴルのオロン・スム将来モンゴル語写本残余』 Die mongolischen Handschriften-Reste aus Olon süme, Innere Mongolei (16.-17.Jhdt.) (Wiesbaden: Otto Harrassowitz,1976)を出版した。ハイシッヒは、主要文書の写真とローマ字転写を掲げ、211点の断片のなかで39点が「入菩提行論」に係わるものであることを証明し、またその注釈の断片もみいだした。さらに、「般若心経」、「無量寿経」、「金剛般若経」などの仏典断片、祈禱文、陀羅尼、予言などの存在も明らかにした。同書冒頭には、文書の「Ausgräber/発掘者」である江上への献辞が書かれているが、出版へと至るまでの、いかにも江上らしいおおらかな態度、そして同時にこの種文書に対する日本の言語学者とドイツのモンゴル学者の対応の違いをもしめすエピソードについては、親友であり、最初にオロン・スム文書の研究を手がけた服部四郎によって、江上の古稀論文集へ寄せられた好編「 江上君と私」を御覧いただきたい。これらモンゴル語文書は、現在、横浜ユーラシア文化館において登録上、234件が所蔵されている。ハイシッヒが未調査の文書はふくまれておらず、また上掲書で掲載されているものの所在不明の文書もあるが、ほぼ大部分は保管されている模様。

一方、おそらくハイシッヒが精力的に文書調査に取り組むよりまえに、江上が「接収」されたとおもっていたオロン・スム出土資料が、意外なところから「発見」されていた。三宅俊成は戦前期に中国東北地方で考古学調査に従事していたが、58年からは東洋文化研究所イラク・イラン調査室で、江上による西アジア調査資料の整理をおこなっていた。三宅は大塚の東洋文化研究所構内ボイラー室において、「一隅に積み重ねられた石炭の中に瓦塼の類が多数あるのを発見した。一見してこれらは江上教授が内蒙古のオロン・スム王府址で発掘し将来したものと分った」と、その経緯をしるす。58年以降のいつ、この発見があったのか、「瓦塼の類が多数」とあるが、瓦塼のほかにどのような遺物がふくまれていたか、さらになぜボイラー室に遺棄されていたのか、三宅はすでに他界しており、また江上も三宅も終戦直後の東方文化学院にはおらず状況を知らないので、詳細は不明である。

江上は将来資料のほとんどが、占領軍により接収されたとおもっていた。ただし江上の関係論文に掲載されたオロン・スム出土遺物のかなりの部分が、たとえばローマ教会堂址附近で採集された人物塑像胴部など重要遺物もふくめ、実際問題として日本に残されている。もちろん戦後に撮影され論文に図版掲載された遺物もあるが、残されている遺物の数量は多い。三宅は、現在、日本で保管されているオロン・スム遺物のなかで、瓦塼となにをみいだしたのだろうか。わたくしは江上からボイラー室から文書(の一部?)がみつかったが、湿気のためゴワゴワになっていたとの話しを聞いたことがある。ただしハイシッヒが確認した200余件の文書が、58年以降にボイラー室から発見されたとは考えられず、この江上の記憶が正確であったとしても、66年出版書の図版21、つまり II/15A-Cがそれであったのではないかと推定している。そうだとするならば、62年にハイシッヒが調査に訪れたとき、ボイラー室からみつかった文書資料十数点をしめした可能性はある。ともあれ江上もふくめ関係者のほとんどが物故しており、さらにわたくしがオロン・スム遺物についてお尋ねしたのも、大分あとの時点なので記憶が正確とはいえない。

江上が67年に東大を退官する時点で、オロン・スム将来資料、そして44年の民族研究所在職時代の調査収集資料をもふくむ内モンゴル関係資料は、江上の自宅など数箇所で分置されていたようで、大塚、および65年に本郷へ移転した東洋文化研究所で一括保管されていたとの証言はない。ただボイラー室で発見されたオロン・スム資料については、三宅が「断続的であったが調査を続け」ており、瓦塼類に関して研究をまとめたこともあって、80年代はじめ、江上は「三宅氏と共同で、オロン・スムに関する従来の内外の調査・研究の成果を集成し、『オロン・スム』全四巻の出版を計画」した。予定によれば、第一巻「元代オングート部族の都城址と瓦塼」、第二巻「元代の景教墓石と王傳徳風堂碑文」、第三巻「元代の遺物」、第四巻「明清時代のラマ教の泥仏・泥塔・古文書・碑文」からなるが、はたして本気で全巻の刊行を期していたかは疑わしい。結局、『オロン・スムⅠ:元代オングート部族の都城址と瓦塼』(開明書院、1981年)のみ刊行されたが、その「都城址編」は江上旧稿の再録、「瓦塼編」は三宅によるオロン・スム出土瓦塼の研究論文である。

この出版と前後して、1979年に江上が館長をつとめる人間 [のち野外民族と改称] 博物館リトルワールドへ「1939年から1944年にかけて内蒙古オロンスムを中心として収集した資料類が一括して」寄贈された。「内容は細石器、土器・陶磁器片、獣骨片等の考古資料、文書類、若干の民族資料などの多岐にわたっており、総点数は2000点をこえる」(『リトルワールド年報』第2号[1980年])と紹介されている。ただ、この数は概数であって、点検した数値ではないようだ。しかし、この一度はリトルワールドへ寄贈された資料は、江上の判断およびリトルワールド側の事情もあって、結局ほとんどが江上へ返却されることになる。一方、東洋文化研究所は81年度から江上蔵書の一部を譲渡されていたが、83年度に「主として土器片・陶器片など」からなる「内蒙古出土学術資料」約1万点の寄贈を受けた。東洋文化研究所に対する寄贈分は、リトルワールドから返却された資料の一部と推測されるが確証はない。ただし三宅が書くような、内モンゴル関係「考古学遺物を東洋文化研究所に、また他の民俗資料を」リトルワールドへ分割寄付した事実はない(10)。東洋文化研究所への寄贈分以外の、モンゴル語文書、陶磁器片100余点、拓本などのオロン・スム将来資料が、江上から横浜市に寄付されて、横浜ユーラシア文化館で保管されている。

おわりに:江上波夫のオロン・スム調査とその時代

本稿を書くために、オロン・スム遺跡関係論考、そして回想記類をめくり、さらにわたくしが生前の江上から伺った話しなどをおもいおこしてみたが、すくなくとも江上の東大在職時代、つまり 60 年代までの考古学調査、わけても戦前の内モンゴル調査は、まぎれもなく「探検」と一体化された状況のなかでおこなわれたことに、あらためて気づいた。これは、現在の日本人研究者による、海外での考古学調査とはまったく異なる環境下であった。さらに戦時中に実施されたゆえに、発掘は予備調査段階で終わり、しかも戦後情勢のなかで資料は散逸した。したがって、江上による調査報告は不完全なものとならざるをえず、本人にとっても不本意であったろう。しかしモンゴル帝国時代のオングト部遺構、 モンテ・コルヴィノ教会堂の発見は、中央ユーラシア史のみならず東西交渉史研究上、画期的な意義をもつ。このオロン・スム調査が、考古学者江上の存在を世界学界に伝え、つぎなる活躍の舞台へと導いた。さらに江上自身は、さして重要視せずに持ち帰った16~17世紀のモンゴル語文書は、モンゴル文献学にとっては実に貴重な資料であり、江上の親友であり、おなじく探検の時代を生きた文献学者、ハイシッヒの懸命な復元作業によって世界学界へと紹介され、ハイシッヒにとっても、そのオロン・スム文書研究は『モンゴル文学史』 Geschichte der mongolischen Literatur (Wiesbaden: Otto Harrassowitz, 1972) と並ぶ代表作となった。

江上は90年5月にオロン・スムを訪れる機会に恵まれた。しかし「碑文やネストリアンの墓石だったものは全部なくなってしまった。というのは、この地域にまで農民が入ってきて、彼らが墓石を建築に使うので持っていってしまうのです」と翌年に開かれた座談会で語り、「どうしても早く行って調査をしないといけない」と再調査への意欲をみせていた。イタリア研究者グループもオロン・スム遺跡調査に関心をしめしているというが、いずれ本格的な発掘が中国研究者の手によっておこなわれるであろう。しかし江上により緒がつけられたオロン・スム遺跡の発掘・保存・研究へ、われわれ日本人研究者も、色々な形で協力、参加する方法を探るべきであろう。そして江上がおこなった予備調査自体の総括、将来した資料の整理も早急に進めなければならない。この展覧会が、江上の調査を再びおもいおこす機会となり、あらたなる研究発展への契機となることを期待したい。

(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)

(1)以下、文中でとくに典拠をあげない、江上によるオロン・スム遺跡発掘に関する記述は、『アジア文化史研究論考篇』 (山川出版社、1967年)所収の関係論文3編にもとづく。

(2)「彙報」『東方学報(東京)』 第十一冊之二(1940年7月)、298-301頁。

(3)「彙報」『東方学報(東京)』 第十三冊之一(1942年5月)、201頁。

(4)「学問の思い出―江上波夫先生を囲んで―」『東方学』 第82輯(1991年7月)、16-17頁。

(5)小山富士夫 「ねりあげ手」、初出は『茶わん』 第10巻第9号(1940年9月)、現在は『小山富士夫著作集(下)』 (朝日新聞社、1979年)、388-399頁に所収。

(6)服部四郎 「オロンスム出土の蒙古語文書について」、初出は『東方学報(東京)』 第十一冊之二、現在は『服部四郎論文集第一巻:アルタイ諸言語の研究Ⅰ』 (三省堂、1985年)、291-313頁に所収。また、同「江上君と私―オロンスム出土の蒙古語文書のことなど―」、初出は『江上波夫教授古稀記念論集考古・美術篇』 (山川出版社、1976年)、現在は『服部四郎論文集第三巻:アルタイ諸言語の研究Ⅲ』(三省堂、1989年)、483-488頁に所収、も参照されたい。

(7)Walther Heissig, Ein Volk seine Geschichte (Dusseldorf: Econ Verlag, 1964);ワルター・ハイシッヒ著田中克彦訳 『モンゴルの歴史と文化』 (岩波書店、1967年)、344頁。

(8)前掲 「学問の思い出―江上波夫先生を囲んで―」、24頁。

(9)ワルター・ハイシッヒ、前掲書、346頁。

(10)三宅俊成 「東西文化の一接点、オロン・スムの泥塔について」『深井晋司博士追悼シルクロード美術論集』 (吉川弘文館、1987年)、260頁。

Prof. EGAMI Namio and His Excavation in Olon Süme, Inner Mongolia (abstract)

NAKAMI Tatsuo

Prof. Egami Namio (1906-2002) visited Olon süme which was the old Önggüt palace-city under the Mongol Empire for an honor in 1935. He again visited the place for two months in 1939 and for two weeks in 1941. He discovered Monte Corvino’s Roman Catholic church, the Önggüt palace, ten Nestorian tomb stones and also many Tibetan and Mongolian manuscripts of the 16th-17th centuries from a Buddhist stupa. Among his distinguished academic works, this excavation of Olon süme is one of the most important contributions to Asian archaeological research and Central Eurasian Studies.

However, due to the defeat of Japan in the Second World War in 1945, the excavation was stopped just at a preliminary stage. Moreover, most of the important materials from Olon süme were captured by the U.S. Occupation Army. Despite such misfortune, Prof. Egami wrote several reports and articles on Olon süme in Journal Asiatique CCXL-2(1952) and in his book, Ajia Bunka-shi Kenkyu (1968). As to the Mongolian manuscript-fragments, while Dr. Hattori Shiro and Dr. Nicholas Poppe had introduced some of them, Dr. Walther Heissig finally produced a total philological identification to the fragments, Die mongolischen Handschriften-Reste aus Olon süme, Innere Mongolei (16.-17.Jhdt.) in 1976. Mr. Miyake Shunzei also published a monograph on the Mongol Empire period’s tiles from Olon süme in 1981. This exhibition will be the first occasion of showing cultural objects including rubbings of stone inscriptions and Mongolian manuscripts brought to light by Prof. Egami in Olon süme.

( Research Institute of Languages and Cultures of Asia and Africa, TUFS)