オロンスムの発見と歴史The Discovery and History of Olon Süme

松田孝一

オロンスムとは

オロンスム土城は、中国内蒙古自治区の区都フフホトから西北へ陰山山脈(大青山)越えで180km、又最も近い町、百霊廟鎮の北約30km、アイブカ河の河畔にある。ゴビ砂漠南端の草原にある長方形の城壁に囲まれた遺跡で、規模は東西950m~70m前後、南北560~80m前後で、国立競技場の芝生70数個分の広さがある。

ここはチンギス・ハンの建国 [西暦1206年] に率先協力した功績で、モンゴル帝国~元朝時代[1206~1368] にこの地方の領主として栄えたオングト族の王家の居城であった。帝国初期「アンダ堡子(とりで)」と呼ばれ、のちに黒水新城、静安、徳寧と名前を変えた。城内には黄色や緑の彩釉瓦で葺かれた宮殿など、壮麗な建物が多数建てられていたと思われる。

1368年元朝が明朝によってモ ンゴル高原へ逐われ、オロンスムも炎上し、160余年の栄華も途絶えた。16世紀アルタン・ハン[1507~1581] がこの地方を勢力下におき、チベット仏教を導入し、首都フフホトに仏寺を創建したが、オロンスム土城内にも多くの仏寺が建てられたと。オロンスムとは「多くの寺」という意味のモンゴル語で、本来はオロンスム・イン・トル(多くの寺の廃墟)と言って、仏寺址、仏塔址などが残され、仏典の断片なども発見されている。

以下で、遺跡の発見・調査、遺跡や遺物、城主オングト王家、王家の宗教ネストリウス派キリスト教(以下でネストリウス派と略す)について解説しておきたい。

オロンスムの発見と江上波夫の調査

1927年にS. ヘディンのシルクロード調査隊(西北科学考査団)の黄文弼がこの土城を発見し、土城内に残っていた「王傅徳風堂記」(1347年)という石碑からここが元朝時代の王府址であることを確認した。その後、O. ラティモアが1933年に十字架を刻んだ墓石を発見し、ネストリウス派の遺跡であることを明らかにし、またアルタン・ハンの功績を記した石碑から16世紀にも繁栄していたことを指摘した。

その後、江上波夫が1935、39、41年に3 回にわたり調査をしたが、1935年の調査から帰国後、「王傅徳風堂記」の記事に見られる王家の人名「馬札罕」が、『元史』(明朝初めに編纂されたモンゴル帝国~元朝史)に見られるオングト王家の「趙王馬札罕(マジャルハン)」に符合することをつきとめ、オロンスムが、元代のネストリウス派教徒であるオングト族の趙王家の王府址であることを世界で初めて明らかにした。

江上は1939年の調査で土城の測量図面を作成し、2、3の試掘を行い、ネストリウス派寺院址や8代目当主ゲワルギスが建設したローマ教会堂址など多くの建築址を特定した。江上は1941年の調査で宮殿址の表面の試掘などを行い、1943年にも百霊廟まで行ったが、戦局、治安悪く引き返した。近年中国でも調査が徐々に進められているが、遺跡全体の発掘はされていない。江上は1990年に約50年ぶりに現地を訪れ、大掛かりな調査を申し込んだが、許可されなかったという。2001年9月に筆者も現地を訪問したが、直前の8月にベネティアの研究者が4人訪問して、ローマ教会の発掘の予備調査をして帰ったとのことで、今後は外国調査隊の希望が受け入れられる可能性もある。

オロンスム土城とその周辺の遺跡

江上の調査やその後の中国の調査報告によってオロンスム土城と周辺遺跡を概観しておく。外城壁は土作りで厚さは底部が2m、上部が1m残っており、城壁表面に厚さ15cmの日干し煉瓦ブロックを平積みにして補強した作りで、西、北、東壁が比較的保存がよい。最もよく残っているところで高さ7m以上ある。城壁の各隅にもとは見張り用の「角楼」があったと見られ、現在6~8mの堆積となっている。4面の城壁に門が各1ヶ所設置され、南門が王府の正門で、西門が城外の大道に続く一般人の出入口だったと見られている。東門と西門、南門と北門を結ぶ2大道があり、城内で交差している。また南壁中央に接して長方形 [東西290m×南北220m] の内城がある。

城内では現在では50箇所ほどの建築址が知られている。江上は廃墟から次の5箇所を元時代の施設として特定した。(1)内城東区の基壇を宮殿址に、(2)内城東壁東方にある、中庭を三方から建物が囲む院子形式の建築址を 「王傅徳風堂」(王家首相府)に、(3)内城東区の西北隅の基壇を、「万巻堂」(図書館)ないしは宗廟に、(4)内城北壁の北のネストリウス派特有の末広がりのギリシャ式十字架墓石、西アジア風タイル、イスラム風の火燈窓形文様レンガが散在している仏寺址の下層をネストリウス派寺院に、(5)東北隅のゴシック風植物文の暗青色タイル片、白釉丸瓦片が散在し、聖人塑像の胴部が残っていた、10~11世紀の北欧の教会堂形式に類似した建築址をローマ教会堂にそれぞれ特定したのである。

  城内の地表や地中から、龍紋や獣面のついた瓦当(軒丸瓦)や花草紋など各種文様のついた瓦類、黄・緑釉の彩釉瓦、また宋金元時代の磁州、景徳鎮、鈞窯などの陶磁器類やイスラム圏の軟陶器類の破片、石材、石彫、石臼、碾臼、石槽、塑像、人物塑像、菩薩塑像、銅銭、シルクなどが発見された。仏塔の廃址の中から無数の泥製小仏塔なども見つかっている。

  城外では、南門外や東門外にも建築址や居住址が続いており、東門外には窯址や銅鉄の精錬炉があり、手工業地区があったと見られる。城東1キロに白玉に彫刻された文武官各1体の石人(江上2000、図版57B)が横たわり、石獅子と亀趺(きふ;石碑の台の亀形石)がある。封土はないが、高位の人の墳墓と判断され、江上は高唐忠献王、すなわちゲワルギス王の墓陵に特定した。アルタン・ハンの事蹟を記した蒙古文の石碑があったのもこの地である。

  また城の東北に、大小の石を直径3~6m程度の円環状に並べた何百もの墓があり、元朝後期の1327年の日付の墓石やシリア、モンゴル、漢字の3種の文字で書かれた石碑、十字架付きのシリア文字の石碑が発見されている。シリア文字シリア語はネストリウス派の公用文字、公用語であった。

  オロンスムやその周辺で発見された石製遺物は百霊廟鎮の文物管理所(=もとの百霊廟)に移されている。廟の中庭にチンギス・ハンの娘でオングト族に降嫁したアラカイ・ベキ [ 後述 ] の夫の石棺の板石が広げられている。これはオロンスムから38kmのところで1994年に発掘されたというもので、板石には鷹狩りの数場面が美しいレリーフで彫られている。因みにアラカイ・ベキ自身の石棺は、百霊廟鎮東南のシラムレンソムの郷土博物館に復元展示されている。

中庭にはまた上述の高唐忠献王陵墓で発見された亀趺(江上2000、図版58)が置かれている。亀の側面にかけて格式を示す炎文がレリーフされており、石碑が重要度の高いものであったと見てよい。庭東の壁際にオロンスムで発見された十字架とシリア文字で墓主名などが刻まれた墓石が10個程と周辺のムフルソボルガ古城東の墓地で発見された饅頭型の墓石があり、末広がりの十字架が刻まれている。オロンスム東方墳墓にあった2体の石人もおかれている。

オロンスムの主人オングト王家

チンギス・ハンと結んでオングト王家の栄華の基を開いたのはアラクシュである。彼はシャダ族の雁門節度使(李克用 [856~908])の子孫で、さらに遡ればブグハン(ウイグル国 [744~840] の伝説的始祖)の子孫とも言い、代々(オングト)部族長の家柄で、金に服属して長城の守備を担っていたという。シャダ、ウイグルはともにトルコ系部族で、アラクシュはトルコ語で「まだら鳥」(かささぎ類)という意味である。

オングト族の源流のひとつ、シャダ族はもと東部天山北麓にいたが、移動して 9世紀にはオロンスムとその周辺一帯で勢力を張り、唐と提携した。その指導者の李克用は黄巣の乱 [875~884] の平定の功績で雁門節度使に任じられ、子の李(り)存勗(そんきょく )は唐滅亡(908)後、五代2番目の後唐 [923~936] を開国した。オングト族の名は金朝時代に現れ、オロンスムとその周辺に分布するのみならず、シャダ族の移動経路にあたる西安(唐の都長安)西方の高原地帯でも同族が強力な勢力を保持していた。

1204年、アラクシュはテムジン(後のチンギス・ハン)によるモンゴル高原諸部族統一の最終段階で、テムジンと敵対するナイマン族からの呼びかけを拒否して、テムジンに進物を届けて誼みを通じ、援軍を率いて助け、建国88 功臣の一人に数え上げられた。王家は初代アラクシュ以後1347年に当主であったバトテムルまで15代、その後は不明だが、明初の1371年に明に下った趙王オングトを入れると少なくとも16代続いた。チンギス・ハンは、娘アラカイをアラクシュの甥のジュンクイに降嫁して以来、王家は時のハンをはじめチンギス・ハン一族諸王と通婚し、王号として「北平王」「高唐王」、さらには格の高い一字王号の「■王」「趙王」を付与された。

領地としてオロンスムの他、周辺の沙井、浄州路、集寧路といった草原一帯を保持した。オロンスムの最初の名前、アンダ堡子のアンダはモンゴル語で「贈り物をし合った友人」という意味で、通婚の関係にもとづく義父子関係を表すフダの関係とあわせて、友好関係の者同士をアンダ・フダと称した。オングト族王家とチンギス・ハンはまさしくアンダ・フダの関係にあり、アンダ堡子はそのための命名であったと思われる。

オングト王家の歴史におけるハイライトは、ゲワルギス(~1298)の時代である。彼の名は『東方見聞禄』でテンドク(現在のフフホト)の王ジョルジとして記録されている。また1294年ローマ教皇ニコラウス4世 [在位1288~1292] が元朝に派遣したモンテ・コルヴィーノによってカトリックに改宗し、上述のローマ教会堂を建設したことで名が知られ、学問に秀で、居城の私邸に「万巻堂」という図書館を建築し、儒者と学術討論を繰り広げたという。また武勇でも名声があった。かれは西北国境の防衛拠点のひとつを担当していたが、1298 年、他の拠点が敵の侵入で全滅した際、ゲワルギスのみが防備を固め、孤軍奮闘の末、敵の捕虜となって殺された。遺骸は元軍の力が敵地深く伸長した12年後に元朝大ハンの支援を受けて中央アジアのボロド城から2400km 離れたイェリクルスの王家墓所に改葬された。

オングト族の宗教 ネストリウス派キリスト教

ネストリウスというのは、5 世紀のローマ帝国コンスタンチノープル大司教で、キリストの母マリアを「神の母」として崇拝する風潮に反対し、「神に母はなく、マリアは人としてのキリストの母である」と主張したため、エフェソスの公会議(431年)で異端とされ追放された。ローマの隣国、ササン朝にはローマ教会(西方教会)とは別組織の「東方教会」があった。ネストリウスはエジプトで客死したが、東方教会はネストリウスの同調者を迎え入れ、その考えを正統としたためローマ教会から「ネストリウス主義」とされた。東方教会はササン朝支配下で発展し、伝道と医学、薬学研究に力を入れ、その信仰は各地へ医学とともに広がった。中国では唐代635年に長安に伝来、太宗皇帝の保護を受けて景教の名で盛んとなったことは「大秦景教流行中国碑」(781年立碑)によって知ることができる。

景教は845年の外来宗教弾圧で中国から姿を消したが、モンゴル高原の諸部族の中にネストリウス派は残存した。チンギス・ハンが勃興した12世紀末、ケレイト族、オングト族などに多数の信者がいた。モンゴルは宗教に対して帝室の安泰への宗教的奉仕を求めただけで寛容で、元朝ではネストリウス派を管轄する官庁、崇福司が設けられ、エルケウンと呼ばれたネストリウス派教徒や司教たちは免税などの特権をうけた。首都カンバリクには大主教が置かれ、全国計72ヶ所にネストリウス派寺院(十字寺)があった。1268年にマール・セルギスというネストリウス派教徒が中央アジアから元朝に招かれ、薬であるシャーベット作りによって帝室に仕え、鎮江という町の代官時代に7箇所の教会を建てて帝室の安泰を祈りつつ伝道した。

明以後のオングト族ネストリウス派教徒の行方について、オロンスムの南の黄河を渡ったオルドス地方に住むウーシン族にエルクートという集団がいる。エルクートは元代のネストリウス派の教徒ないし司教を表す「エルケウン」のモンゴル語複数形に一致し、彼らは葬式や聖餐式で十字架を使用し、洗礼式を行っているという1930年代の報告がある。この集団が元時代のネストリウス派教徒の痕跡かもしれない。

(大阪国際大学)

主要参考文献
  • 江上波夫 『モンゴル帝国とキリスト教』 サン パウロ、2000年
  • 佐口透 『モンゴル帝国と西洋』(東西文明の交流 4 ) 平凡社、1970 年
  • 蓋山林 『陰山汪古』(中国古代北方民族史叢書) 内蒙古人民出版社、1992年